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「上手くなる」と魅力がなくなるかもしれない

ボクの洋服作りは、学校で習った以外では、組織に属した経験は四半世紀以上前のオートクチュールのアトリエだけで、それ以降は誰かと技術を共有することのない、いわば「自己流」です。

洋服の縫い方や、構造に関する情報源は、他の人がつくった完成した洋服くらい。しかも、自分では洋服は買わないので、直しを頼まれたときに内部を確認することが主な情報源です。
それでも十分、内部を見ると、自分の持っている道具で、同じものを再現できるかどうかはわかるし、自分でできる要素を取り入れることはできます。

それで、困ることはなかったので、そういう状態が長く続いていたんですけど、たまたま、学校で教えるようになったことと、YouTubeでの情報が増えてきた頃が重なったこともあって、他の人の洋服の作り方を観るようになり、それが今でも続いています。

そうやって、いろんな人がつくっているところを見ていると、「この人、上手につくれるようにならないほうが良いのでは」と思うことがあります。
「上手につくれるようにならないほうが良いかも」と思うのは、べつに相手を見放しているわけではなく、「つくる人の個性」と「時代の変化」が、理由としてあげられます。




前者の「つくる人の個性」については、「上手につくれるようになると、デザインまで勢いを失って、魅力がなくなりそう」と感じさせられる人が時々いることで、デザインと技術は簡単に切り離せるものではないし、もし、他の上手につくれる人に制作してもらったとしても、その傾向は残ると思います。
「荒々しさ」や「勢い」などが魅力になることはあって、それは、「上手くなる」とは別の世界です。

後者の「時代の変化」は、「上手くなる」に、意味がなくなったわけではありませんが、性質が変わってきているのかもしれない、ということです。
今でも聞くことのある、キレイに縫われている手仕事に対して、「ミシンで縫ったみたい」という言い方(褒め言葉)がありますが、それって、「じゃあ、ミシンで縫えばよいのでは」ともいえるわけで、ミシンの縫い方を目指して、ミシン縫いよりも時間のかかる手で行うことは、時代とともに、より無意味になりつつあります。
「ミシンで縫ったような正確な縫い方が『上手い』と定義されている」、ということになりますが、「それってミシンで簡単に縫える時代でも正しいの?」という問いです。
機械がどんどんと、安価にキレイにつくれるようになってきた時代に、それでも人の手で行うべき付加価値は、「ある程度の不正確、不規則さをともなう仕事」なんじゃないか、と思います。
「上手い」が指すものが根本的に変わってしまったわけではありませんが、「ミシンでは縫えないような縫い方を、手仕事は目指すべき」ということです。




「『上手くなる』と魅力が増す」、というのは間違いではなく、多くの場合で正しいけど、人によりけり、状況によりけりです。
大切なことは、「上手くなる」ことだけを目的としないことだと思います。