型紙をつくっていると、延々と修正をくり返すことがあり、「このカーブがキレイじゃない」とミリレベルで修正したりもしますが、このレベルになると、「本当に必要な修正なの?」と、自分で思います。
なぜなら、生地の裁断、縫製の段階でミリレベルの誤差はでるし、多くの生地は、ミリレベルで寸法が安定するわけではないからです。
それにもかかわらず、修正をくり返すのですが、これは、「技術」ではなく、儀式」なのではないか。
型紙をつくるときには、丈や幅などの「量が適切か」と、切り替え線の流れなどの「見た目が美しいか」という美観にかかわることと、「長さのつじつまが合っているか」という、縫製するときの整合性とのバランスで決めることになります。
後者は、検討する箇所が多いと手間はかかるものの、目的がはっきりしていますが、前者のゴールがどこかは、はっきりとは分からず、「納得感」や「腑に落ちる」といった、主観的なことがゴールだったりします。
なので、これらの主観的なゴールは、「『技術』ではなく、『儀式』なのではないか」、と。
もともと、洋服つくりは、個人の職人芸のつみ重ねでもあるので、「儀式」がまぎれこんでいる可能性はあります。
「継承する技術的な必然性はなくても、それほどの弊害はない」という理由で継承される可能性もあります。
「『きっと何かの意味があるんだろう』と継承したけど、実は技術的な意味はない」ということです。
弊害がなければ、儀式を継承してもかまわないと思いますが、問題は、つくり方を変える時、変える必要にせまられた時です。
自らがつくり方を変えようとする時や、他のつくり方を参考にしようとする時には、技術と儀式の違いに自覚的でなければいけません。
さて、写真の型紙、自分はこういうつくり方を続けていそうですが、ほかの人に「こうしなさい」と言うつもりはありません。
ただ、修正し続けている過程は、無駄な時間ではなく、その結果として見えてくることがあるように思います。