ボクが生まれ育った実家は、ボクが生まれる前からお茶とお花を教えていて、もともとは祖母が始めて、今も母が教えています。
教えているのは「表千家」なのですが、微妙に裏千家との作法が違うらしく、時々祖母が「裏千家は〇〇ですけど、表千家は〇〇です」と教えていた言葉が、具体的に何が違うと言ったのかは忘れてしまったにもかかわらず、子どものころからずっと引っ掛かって忘れられずにいました。
「なんで、違うの?」
そんな素朴な問いを解決できずにいたのですが、数年前ふとした対話の中で、たまたまそのことについて話しでくれた人がいました。
「表千家と裏千家の作法のどこが違うかと言うと、『どうでも良いところが違う』」と。
その話は彼が、誰かお茶の先生に聴いたことのようで、ボクは、その言葉で長年の謎が解けた気がしました。
「あっ、そういうことだ!」
「だから、理由が言えないんだ!」
「MacとWindowsで、マウスのスクロール方向が逆なのは、そういうことか!」
「どうでも良いこと」でないなら、どこかに収斂して違いは出ないはずだけど、「どうでも良いこと」なら、どうでも良いので言った者勝ちだし、本当は「どうでも良いこと」を、ズバリとどれかに決めてしまうことは、言い切った人に恩恵があるので、特に駆け引きに長けた人や、マウンティングが好きな人がやりがちな選択です。
「どうでも良いこと」でないなら、間違えば選択を改めることになりますが(どうでも良いメンツやプライドが邪魔をして当人は改めない、ということもありますが)、「どうでも良いこと」なら、結論が間違った、ということにはなりません。
しかも多くの人にとっては、「どうでも良いこと」をいちいち自分で決めるのは無駄なエネルギーの損失なるし、軋轢を生む可能性すらあるので、誰かに決められることが、必ずしも迷惑になるわけでもありません。
「『どうでも良いこと』なら、従った方が楽」ということです。
「どうでも良いこと」なら、他の誰かに、理論的に否定されることもないので(感情的に、あるいはマーケティング的に否定される可能性はありますが)、後の世代に継承され伝統として尊重されることもあります。
しかも、「どうでも良いこと」を、どれかに決め共有することによって、良好なコミュニティを成立させることもできるし、世の中にある様々な「ブランド」と呼ばれるものは、そういう「本当は『どうでも良いこと』を、どれかに決めて価値を与える行為だ」、という側面もあり、それが差別化になります。
なので、「どうでも良いこと」を、どれかに決めてしまうことが、必ずしも悪いことではありません。