以下ページ全文
「安心して“なぜ”を考えられる場」を作ろう
僕は,「何かを完成させた」ということより,「何かが分かった」ことの方が大事だと思っています。ただ現状の学校では「分かりました」を評価することが難しい。あくまで提出物や試験が「できた」ことを評価することになりがちです。
つまり,「分かった」には主観が入るので,評価に向かないんです。けれど僕はむしろ,「分かったけれど,できなかった」人を評価したいですね。
具体的に言うと,自分の手で生地などを触って何かに気づくことが,ここでの僕の感覚での「分かる」です。数値的な「知る」とは少し異なりますね。「分かる」こととは,自分の手で触って「ここはこんな感じ」とか「ここはちょっとおかしい」を把握すること。
学生には「どういう形にしたいか,生地が教えてくれる」とあえて言います。これは理論で教えられないことなんです。自分の感覚を積極的に働かせて,「耳を澄ますことが大事」と思うから,まるで相手が人間であるかのように,生地と「話す」という言い方で伝えます。
でも,この学生への語りかけの何割かは,かつての自分に対してやっている気もしますね。生徒だった頃の僕は,はっきりと「なぜこれを学ぶのか」,その理由を知りたかったし,今でもこの気持ちは変わりません。
もちろん,こういう僕のやり方には非効率な面もあります。でも僕は,「なぜそうやっているのか」,「全体の流れの中で自分はいま何をやっているか」は分かっておきたいし,学生にも分かってもらいたいんです。
僕は学生によく「あなたが考えていることを話してください」と語りかけます。学生には「『先生の言ってることは間違いだと思ってます』と言っていいよ」と,はっきりと伝えています。「教科書にも,先生である僕が言っていることにも,とらわれなくていい」ことを生徒に伝えること。これはこだわってきました。ただ,自分が学校に来ている意味は,学生自身が知っておいてほしいですね。だからこそ「分かる」ことが必要だと,僕は考えています。
様々な情報があふれる中で,リアルの教室で教育を行う必要性は,突き詰めていくとそこにたどり着くと思います。自分はあくまで,考えるための場づくりを担っているという考え方。「ここでは安心して“なぜ”を考えていていいんだよ」っていう状況を作り,伝えることが学びの土台となると考えたいですね。(談)
